ARTIST
MOCHIZUKI SHU

陶芸家:望月集

陶芸家望月 集

MOCHIZUKI SHU・Ceramic artist

「結局・・・牡丹の花も、自分が納得するまで創り続けるしかないんだよね」 以前に、人間国宝の先生が私に何気なく言って下さったその言葉。 ここのところは「椿ばかりで他の花は作品にしないのですか」なんてよく聞かれたりしますが、その頃は椿ではなく牡丹の作品ばかり(笑)。 そう、当時は周りから「牡丹以外に創らないの?」とよく聞かれたものです。 そんな時、先生のこの言葉は、その後にすごく励みになりました。

絵模様で感動を表現する

望月集・作品

「花文花器・椿」(部分)

望月集・作品「ありがとう」
望月からの挨拶や連絡は、まずこの言葉から始まることが多い。こちらからすれば、そんな言葉をかけてもらうようなことではないと思っていても、彼は自分への気遣いを感じる言動に対して、どんな些細なことにでも感謝の言葉を伝え頭を下げる。人気作家となった今もそれは変わらない。彼が居れば自然とその場に人の輪ができ、集まった誰もが穏やかな微笑みを浮かべる。
そういう望月の人柄やその思いが、作品に共通して現われている気がする。

彼の作品の大きな特長の一つは、自然を題材とした絵模様のものが多いことであるが、えてしてそれは望月集というフィルターを通って大胆なイメージとなって描かれる。
「ある秋の日、ちょうど台風のすき間のようなタイミングでしたが、富士山の裾野に広がるススキが原に居合わせたのです。太陽が少しずつ傾いて光が平原をなめていくと、うなだれているススキの穂先がその金色の中に浮かび上がったのです。風が渡るたびに、うねりが生まれ、うねりは金色に輝くススキのうねりとなって、自分の方へ押し寄せてくるようだった。その美しさとみなぎる生命力に息をのむほどで、この世のものとは思えない光景とはこういうことを言うのだと感動しきってしまいました」
その瞬間、望月の認識は大きく変わったという。
望月集・作品自然をそのまま写し取るのではなく、自然から受けた感動をやきもので表現しようと決めたのだ。
そのときどきに受け取った思いに基づいてデザインされた作品は、もちろん様々な形となって、望月の抱いたイメージを伝えてくる。
それは、大胆であったり、繊細であったり、可憐であったり、ときには素朴であったりする。だが、共通して感じられることがある。どの作品も、こころにやわらかい日差しが届いたような暖かさ、そういう感覚に浸ることができる。これは、望月という人間の人柄やその思いが、作品に自然と込められているからに他ならない。
彼の創り出す作品はどれも、じんわりと優しく効いてくるのである。

使える食器の追求

望月集・作品

「花文大鉢・椿」(部分)

デザイナーである父親の背中を見て“美の創造”への興味を育んでいた望月は、紆余曲折の末、東京芸術大学を受験していたもののその方向に何か迷いがあった。そんな中、入試願書を提出する直前にたまたま書店で『うるしの花』(松田権六著、岩波新書)という本を手にし、「そうだ、漆芸をしよう!」と志望先を変更し工芸科に決めて受験した。そのような経緯がある。それは“創作作家”としての生き方を覚悟した時でもある。
東京芸術大学に入学すると、放課後は毎日のように漆芸作家の工房を訪ね、下地作りを手伝わせていただきながら漆芸の世界を勉強する日々を送った。だが、一つの作品を完成させるのに6ヶ月から1年かかる漆工芸の制作リズムや、それに向かう毎日のリズムが自分の心に響かないことに気づく。そして、もともと粘土に触るのが好きだったこともあって、大学2年の時の課題で“陶芸”という世界に出会った時に、その魅力にすっかり惹きつけられてしまう。
「粘土で遊ぶだけでなく、絵を描いたり、火で遊んだりすることもできる…、とても面白いなと思いました」

東京芸術大学大学院で陶芸専攻を修了し、非常勤講師として母校に勤めている時代には名だたる芸大教授陣が教鞭をとっていた。人間国宝の田村耕一氏・藤本能道氏、そして食器作りの名人と謳われた浅野陽氏。なかでも、浅野氏の考え方に望月は大きな影響を受ける。
「三人の先生方はすごく刺激的で、それぞれに多くの勉強をさせていただきましたが、特に浅野先生の食器に対する考え方に感動しました。単なる美とか形式にとらわれることなく、使える食器を追求していくという姿勢に共感し、私も食器を作るようになりました」
計算された重さ・サイズはもちろん、使い勝手・使い心地ともに抜群でデザイン・色彩も素晴らしい。望月もこういった浅野氏の作る食器の特長を強く意識して制作に当たっている。
「食器は美術館でガラス越しに見るようなものじゃありませんよね。実際に盛って、食べてみる。そうしたことによって面白さや楽しさが出てくる、それが器だと思っています」
特に高価な料理や飲み物でなくとも、器や盛り付けを工夫するだけで、より美味しく感じられたり、豊かな気分になれたりする。望月の目指しているのは、そういう使い方のできる食器を創ること、あるいは、その食器を使う人のこころを笑顔にすることには違いない。ただ、片方でその世界をより魅力的に進める才能を持ち合わせているのか、自身に疑問を持っていたのも確かである。三十代になった頃、以前に田村耕一氏の個展に行って気づいていたことを改めて「そういうことだよな」と思うようになる。そのことは、その後の制作方向を浅野氏の影響から少し離れ、より自分の価値観を主眼に置いたものに変えていくことになった。

芸術作品の実用性

作家が技巧を駆使して作り上げる工芸品に関して、美しさと実用性は互いに邪魔になる可能性があると考えられてしまうことがある。望月は、田村耕一氏の陶匣(陶器の箱)を見たときの印象を踏まえて“実用性”について話している。
「特に伝統的な工芸業界では、ほとんどの人が実用性を重視しています。たとえば、お皿はそこに盛る食べ物の色を引き立てられるように単色にしたりします。でも、田村耕一先生の陶匣を初めて見た時は、とてもわくわくしました。何に使うのか、どう使うのかも分かりませんでしたが、すっかり魅了されてしまいました。広い意味での“実用性”を考えたとき、ただ、そこにあるだけで人に幸せな気持ちをもたらすことができる優れた芸術作品は、大いに実用性があると言えるのではないかと思います」
使い方は、使う人が自由に決めればよいのである。

こころの贅沢を楽しむ

阪神淡路大震災後に復興開店した神戸・大丸で個展を開いたとき、来てくださった方の言葉が印象深く記憶に残っているという。「今はさすがに買わないけれど…でも、いいわね…」 東日本大震災直後にも同じような経験をした。まだ計画停電の中、鎌倉で個展をしていた会場で望月の作品を前にしたお客さまが「ここに来て、ホッとするゎ…」「暖かい気持ちになるね」とおっしゃってくださったそうだ。そのとき、とても嬉しかったのと同時に、思い浮かんだことがあった。 陶芸作品はただ直接的な使い勝手だけでなく、心に安らぎを与えるような、元気を生み出すような…そんな存在でも有り得るのだと。 良い器は日々を生きていく中で溜まった負の感情や淀んだ気分を吸い取り浄化してくれる。 さらに、生活に刺激を与え、こころの贅沢を楽しむいい時間を過ごさせてくれる。

望月は今日も、良い器創りと向き合っている…

東日本伝統工芸展

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漆芸家井ノ口 貴子

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横尾英子・はな

日本画家横尾 英子

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